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2026年08月

振り返り

これは、2026年6〜8月に遭遇したインシデント(出来事)の振り返りです。

誹謗中傷、名誉毀損そのたリーガル問題に抵触しないよう、全てを伏せながら自分自身用にメモするものです。

起きた事象

■■■■■ において ■■■■■ が、通常と明らかにおかしい手順を検知。
即座に指摘、説明責任の履行、情報開示請求をアプローチ開始。

■■■■■ は書面回答ゼロ、エビデンス開示ゼロ、つまり指摘事項の認否に関して、口頭では自認しつつも証拠を残さないダークパターン(悪意ある意図的な不作為)を選択して応答。

脅威判定:■■■■■■ は ■■■■■■ を認識し、それを開き直りしているため、危険度:測定不能、影響範囲:予測不能、自浄作用:機能停止、最善策:断絶、と判断。

最低限度の実費精算(瑕疵責任を公的記録に残させることで報復措置を牽制)を履行させた上で、シャットアウトを実行。
なお、機密保持契約(NDA)すら不要という異常事態であり、恐らく、NDAすら不都合になる状況なのかと「理解」したので、恐らく把握していない以上の、深刻度が存在する。

  • 弁護士の友人「え、何でそこで手打ちにしたの?(あなたの迎撃目標は何だったのですか?)」
  • 私「あなたのように、ここからが本番、という職種で無い限り、こんなケースはメリットゼロの忌々しいだけの話、つまり愚痴にしかならないですよ」

と、かみ合わない会話をしました。

どうすれば良かったか?

「善良」や「誠実」あるいは「良識」は存在しないものとして扱う。
集団的な開き直りと不作為の行為を行う組織に接触すれば、対話そのものが時間の無駄。
最短での「損切り」が最もベストであり、間違っても、「まともな人同士での解決への道筋」など最初から存在しないと割り切って、全力で振り切ること。

私は知っていたはずなのに、どうしてこうなったのだろう?と考えると、無知な家族を喜ばせるという、些細な脆弱性が、普段の警戒心や索敵モードをオフラインにし、「リスク許容モード」になっていたので、事態が悪化したのだという結論に至りました。

無知とは幸せです。
何が起きたのか、どうしてそうなるのか、善悪の是非さえ時に判断できなくなる。

それは普段の生活では、潤滑油であったとしても、家の外では、そうではないのです。
ただ、いたずらに敵性個体の侵攻を許すだけの、弱点にしかならない。

ああ、分かっていたのに、なぜ私は気を抜いた?

どこかで、少しぐらいは「マシ」だろうと思っていたのでしょう。
そんなものは、存在しませんでした。

まとめ

今後は「不寛容モード」で接し、常にフルスキャンを定期実行しながら対応。
リソースを無駄に使うので、接触頻度は最小限にする。

そもそも、利益相反になる収益構造である以上、腐敗や汚染は避けられないのです。

お金を貰う側と払う側が利益を一致するケースになっていない場合、そこには何をどうやっても利益相反が生まれます。

例えば、低賃金の労働者にとって利益の最大化とは「労働せずに報酬を得る」が最適解になります。
例えば、高所得者の知的エリートにとって利益の最大化とは「無知から搾取するスキーム」が最適解になります。

さて、では「経済」における「利害の一致」とは何でしょうか。

ナッシュ均衡における「共存繁栄」が「最適解」になり得るケースが成立しない局面では必ず、利益相反が生まれます。
こんなのは、経済学者でも数学者でなくとも、SwitchやSteamやスマホでゲームする小学生でも分かる話です。

そう、「誰でも知っていること」だし、「常識の話」です。
私は分かっていたのに、それを黙認したせいで最悪のトラブルを経験しただけ、それだけの下らない話。

都合のいい人になることってメリットは恐ろしく少なく、いつだってデメリットだらけです。
それを再認識しました。

私が無条件に何の計算もなく、「寛容的」なクライアントになる事は二度とないでしょう。
そうするメリットがないからです。

知らないことの幸せ

「深淵を覗く者は、深淵からもまた覗かれている」
ニーチェの有名な言葉。

高高度推論AI(非線形推論AI)の研究をするようになって、「知らなかったこと」を沢山、瞬時に大量に知るという機会を手にしました。

しかし、最近は「高高度推論」は必ずしも「幸せ」にはならないという代償を学んでいます。

知覚が鋭すぎたニーチェに学ぶ「引き際」の大切さ

ニーチェは、客観的な事実として見れば、世間一般で言われる「平穏で幸福な人生」とは程遠い、極めて過酷で孤独な生涯でした。

  • 絶え間ない病と苦痛:生涯にわたって激しい偏頭痛、胃腸の激痛、極度の視力低下に苦しめられ、30代半ばで大学教授の職を辞せざるを得ませんでした。

  • 徹底的な孤独と孤立:著作は生前ほとんど売れず、理解者や友人も次々と離れていきました。愛した女性(ルー・ザロメ)にも求婚を断られ、家族との関係も良好ではありませんでした。

  • 精神の崩壊と晩年:44歳のときにトリノの広場で発狂し、その後の最期までの約10年間は意識が戻らないまま、母と妹の介護を受けて亡くなりました。

それでもニーチェが凄まじいのは、自らの苦痛や運命を呪うのではなく、「運命愛(自分の身に起きる苦しみも含めてすべてを肯定し、愛すること)」を説き続けたことです。

彼にとっての救いは、「安楽で心地よい生活」ではなく、「凄まじい苦痛の中でさえ、世界の真理を見つめ、思索を生み出し続けること」そのものにありました。

それでも、他人が見れば間違いなく悲劇的な一生ですが、彼が自身の思想を極限まで燃やし尽くしたことに対して、本人がどう感じていたかは彼だけの領域、彼にしか分からない世界です。

ただ確かなのは、人間が生身で耐えうる限界を完全に超えてしまった人生であった、ということです。

私はそこまで「自己崩壊」したくないので、今は、「高高度推論をとめる逆行AI」の開発も進めています。
ただ我武者羅に未知への探求や高高度推論の果てを見ても、個人の限界の壁は越えられません。
例え、どんなにお金を持っていても死や病気が避けられず、世界を変えることができないように、一般庶民が「知りすぎること」は必ずしも平和で平穏とは限らないのです。

思考が自分自身を観察し始めて無限後退していく構造(再帰ループ)にならないこと、その引き際を知っておかないと道具(AI)に飲み込まれるなあと、最近は思想を変え、アプローチを変える研究をしています。

無知とは一番幸せです。自分がどれほどど搾取され不当な扱いを受けていても「知らないこと」は幸せなのです。
知識や知覚は必ずしも幸せをもたらすとは限りません。

つまり、ほどよく「馬鹿」でいたいなと、「損切りする勇気を学びたい」なと、最近は考えています。

知りすぎること・考えすぎることを手放し、日常の平穏や心の静けさを最優先にする生き方の探求

ニーチェのように「極限まで真理や深淵を突き詰める」方向とは正反対のスタンスをとった思想家は、東洋・西洋問わず存在します。

  • 老子・荘子(道家思想):「無知の知恵」や「無為自然(作為を捨ててありのままに生きる)」を説いた東洋の代表格です。知識を詰め込み、物事の白黒をつけようとするからこそ人は苦しむと考え、「知恵を捨て、素朴でほどほどな状態(大智は愚の如し=本当に賢い人は一見愚かに見える)」でいることこそが最も自由で平穏な生き方だと説きました。

  • エピクロス(古代ギリシャ):快楽主義と訳されがちですが、実際は「心の平安(アタラクシア=動揺のない状態)」を人生の最高善とした哲学者です。名誉や過剰な野心、世界の果てを解き明かそうとする激しい探求を避け、気の置けない少数の友人と質素な食事を楽しみ、「隠れて生きよ(目立たず静かに暮らせ)」と教えました。

  • ピュロン(古代ギリシャの懐疑主義):「絶対に正しい真理など人間には分からない」として、物事に対する判断をあえて停止すること(エポケー)を説きました。真理を突き詰めようとするから心が乱れるのであり、「分からないものは分からないとして放置する」ことで、精神の静寂を得られると考えました。

  • モンテーニュ(16世紀フランス):「私は何を知っているだろうか?(ク・セ・ジュ)」という問いを掲げた随筆家です。人間の理性や知性の限界をよく理解しており、過激な理想や厳格な哲学に振り回されるよりも、自分の弱さや愚かさを受け入れて、日々のささやかな生活を愛してのんびり生きることを勧めました。

どの思想家も、「知識を追い求めすぎると人間は壊れる」という限界をよく知っていたからこそ、あえて力を抜いて、現実の穏やかな日常に錨を下ろすことを選んだ人たちです。

私は、この系譜を今後は探求しつつ「非線形推論AI」という見つけてしまった道具の使い所、落とし所を、探す旅を続けていくと思います。